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ドラマ 詳細データ南の島に米が降る

現代の充たされぬ生活で埋められた世界の中に、充たされた映画作家たちの何と多いことだろう。この世はいくらか悲しいこともあるにはあるが、いつか誰かが助けてくれるし次の時代は希望に満ちているのだ、と充足した面持ちでねそべっている作家たち。『南の島に米が降る』の作家もその例外ではないばかりか、ぬきんでて典型的であるように思われる。かつて、充足した作家たちによって作りだされ、撮影所から溢れだしてきたメロドラマの洪水に大衆が溺れたとき、セミドキュメンタリーが救いの船を出した。ところが今やテレビドラマの中で主流となったセミドキュメンタリーが、ふたたび、かつてのメロドラマと同じ運命にあることは予測もされ、現実化している。そういう中にあって、ノンフィクションを標榜した企画が現れるのは当然にちがいないし、マスコミの送り手としては見透しのいいプランとして、ほめられるものだろう。だが、フィクションにあきた観客に、ノンフィクションを与えれば、とびついてくるだろうという着想を、作家もまたまるのみこみに受け入れているとすれば、マスコミ芸術の泥沼が、すでに彼の足をさらってしまっている。メロ、セミドキュ、ドキュメンタリー等々、呼び名と見てくれこそ違え、内容において大差のないフィルムが、入れかわり立ちかわりブラウン管を瞬かせてきた、この悪循環を断ち切ることが必要なのだ。青ケ島を舞台にしたこのフィルムは、ナマの記録断片をつなぎ合せながら、これらの映像がすべて実際にあったことなのだから、という素朴な記録主義によりかかって、その上で旧弊なメロドラマを展開しているにすぎない。青ケ島の地理的な条件と、月一ぺんの定期船を素材にして、話を運ぶのは心やさしい少年と少女であるが、少年の方は病気の母のために、船で医者が来ることを願い、少女の方は手塩にかけた牛が売れないように船が来ないでほしいという矛盾がドラマの主軸になる。船がいつくるか、いつくるかというドラマにとって都合のいいサスペンスの支えとして、十二月から正月にかけての日付のタイトルが、日記風なドキュメンタリースタイルを強調していくのだが、進行していく時間の中で、作家が思考し発見していくものは皆無である。そして遂に、正月を前にして、自衛隊の飛行機が、デウスアウスマキーナとして登場し、万事まるく納ってしまう。ここにあるのは、アリストテレス美学の残骸だ。青ケ島の現実の中に一カ月生活して、何を発見し如何に思考したか、この内的なプロセスを作家が欠いている以上、メロドラマとドキュメンタリー、フィクションとノンフィクションの野合は、劣等児の群を産みおとすだけであろう。祈祷師たちの踊りとマスク、もったいぶって、しずしずと歩く神主が、石段をおりるときによろめく姿、学校の先生ででもあろうか、眼鏡をかけたヒゲ面の若い男の表情、葬列、豊漁を祈る正月の祭りごと、海面のフカンショットに浮かぶ黒い一点の船、それらキャメラが垣間見たすぐれたアクチュアルなイメージの中に、むしろ本質的なドラマを構築できなかったのであろうか。【以上、文:大沼鉄郎氏(「テレビドラマ」(ソノブックス社刊)1962年3月号より引用)】【参考文献:「テレビドラマ」(ソノブックス社刊)1962年3月号】
キー局 NTV 放送曜日 放送期間 1962/01/18~1962/01/18
放送時間 放送回数 1 回 連続/単発 単発
主な出演 青ケ島の小中学校生徒佐々木和子菊地 通夫
主な脚本 森園  忠(演出も)
主な演出 森園  忠(脚本も)
局系列 NNN

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