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ドラマ 詳細データ芸術祭参加作品 永い黒い雨(誤り…長い黒い雨)

第14回芸術祭参加作品。「長年の不況、貧困のどん底にあえぐ九州炭鉱労働者の生活を描きながら、その中に芽生える新しい動きと赤裸々な人間像を追求したもの。現地ロケも行なって収めたフィルムも使い緊迫感をもたせている。【この項、朝日新聞1959/11/06付より引用】」「現在、実際にこのような悲惨な状態に置かれた人たちがいるということをいろいろ訴えようとするならば、現地の録音や、ニュース映画の方が遥かに事実としての迫力があるであろうし、その事実をこうした一編のまとまった創作劇として組み立てる場合、どうしてもドラマとしての始末を必要とするために無理につじつまをあわせなければならなくなる。そのむつかしさが感じられ、それがやはりこの作品の弱点になっていたように思える。しかし、それにしても結末を除いては、やはり事実であるだけに強い感銘があったのは、演出者が、出来るだけ忠実に、お芝居にならないよう、写実的に描こうとした努力によるものであろう。カメラの移動にも安定感があり、特に屋内の人物の配置がよく計算されていて、小さいフレームの中で必要な人物を有効に生かしていた点が印象に残った。【この項、文・堀江史朗(「テレビドラマ」1960/01月号(現代芸術協会刊)より引用)】」一方、脚本の寺田信義氏は本作の演出のテンポの悪さを批判している。「NHKの芸術祭参加作品『永い黒い雨』(城山三郎原案)をやったが、これは(演出畑中庸生氏)決して良いテンポとはいえなかった。特にフィルム処理についてはテレビディレクターの弱点を白日にさらした感があった。映画の助監督あたりでさえ画の処理はもっと上手いとさえ思った。フィルムと生(セット)の場合ではトーンが全然違うので、その違いを有効に使うのなら別だが、単なるつなぎやセットで処理し切れないからと安易にフィルムを使用するのは危険である。生ドラマは生ドラマとしてのドラマチックさを叩き込むことである。ヴィデオならともかく、フィルム併用についてはその効果を計算に入れる必要があるのだ。この作品は準備期間が全くない上に、第一稿を書きあげるとするまた第二稿にかかった。実にめまぐるしい仕事だった。演出する方も同様忙しかったには違いないが、許されていいミスと許されないミスがある。役者がセリフをとちったり、セットが不完全であったというならまだ目をつむることもできる。だが、ラストカット一発、何のことやら判らないカットで結んだためにテーマが判らなくなったということは、決して許されていいミスではない。これでは、何のために多くの人がこの作品に貴重な労力を傾けたのか、いや聴取者にしても一時間十五分、何をみせられたのか判らないのでは腹が立つ。私は、いったいディレクターはこの作品のテーマをどう解釈し、どこに情熱を感じたのか疑問にさえ思った。映画にしても何にしてもそうだが、作家と演出家は、テーマの把握のしかた、方向というものをぴったり一致させなければいい作品は生まれっこないのである。【この項、文:寺田信義氏(「テレビドラマ」(現代芸術協会刊)1960年6月号より引用)】」台本段階では、城山三郎は「原案」ではなく「原作」と記されている。【役名(演技者)】フミ(杉村春子)、悦子(小林千登勢)、誠(大塚国夫)、仁造(大町文夫)、平川(佐藤英夫)、佐藤(鈴木瑞穂)、宮下(青野平義)、種山(有馬昌彦)。【参考文献:webサイト「Yahoo!オークション」】
キー局 NHK 放送曜日 放送期間 1959/11/06~1959/11/06
放送時間 20:45-22:00 放送回数 1 回 連続/単発 単発
主な出演 杉村 春子小林千登勢大塚 国夫大町 文夫佐藤 英夫鈴木 瑞穂青野 平義有馬 昌彦宮内 順子西本 裕行小瀬  格山岡 俊三加藤  武
主な脚本 (作:寺田 信義
主な演出 畑中 庸生内田 庸生)、中山 三雄関口象一郎苫米地照美
原作 (原案:城山 三郎
局系列 NHK
制作会社 NHK
制作 (進行:増子 正利、北村 達也)
美術 (装置:寺内  昶)(衣裳:長谷  清)(大道具:牧野 城司

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