第3回放送作家協会賞演出者賞受賞(橋本信也)対象作品。タイトルの「畔」は「たもと」と読む。「園井啓介、島倉千代子の「あの橋の畔で」は、園井が桑野みゆきと組んで映画化されて以来、ファンは増える一方。番組がネットされていない地方のファンから、地元局へ問い合わせや抗議が殺到【この項、東京ニュース通信社刊「TV40年 IN TVガイド」より引用】」。演出の橋本信也は放送当時、本作に寄せた文章を綴っている。「今年の正月から菊田一夫原作岡田教和脚色で『あの橋の畔で』が放送開始。「畔」は「たもと」と読めない、いや読ませるんだ、と開始早々いろいろと話題をまいたが、歌謡歌手、島倉千代子の起用も、主題歌「夕月」のヒットと共に一応成功と目されている。特に松竹映画化も色を添え、園井啓介は今やメロスターのNo1、映画化も既に既に第二部のクランクイン、続いて三部も決定とか。TVの聴視率も上昇の一途を辿り、開始当時の局数も倍増以上の17局、もはや全国をカバーしようとしている。担当者の自分もあれよ、あれよという間にこんなことになっていたのである。個人的には、かつての『君の名は』もさして聴いたこともなく、はっきり云ってメロなるものに興味を感じなかったので、この仕事を始めるには自分なりにいくらかの抵抗を覚えた。そこで、あくまでもやれといわれた時、ホゾをきめて自らに云いきかせたことは、「照れずにやる」ということだった。無責任といわれようが、メロをやるための特に演出上どうこうということは考えずに、今までの自分のなかにあるもので、とにかく照れずにやってきたつもりです。打明け話ですが、とにかくスタートの時は、菊田一夫ありき、島倉千代子ありき、更に古関裕而ありき、という、この三者が決定されていたのであって、後に大好評の園井啓介は数名の候補者と並列してキャスティングに名をつらねていた。今日の高聴視率を当時、誰が予想出来たでしょうか?勿論、原作者、菊田一夫先生は絶対の自信をお持ちでしたでしょうが、筋の進展は、先生から「書いてみないとわからない」といわれては、我々はそれこそ聴視者と殆ど同時にハラハラする以外、なんとも致し方なしという状態でした。ひとつき、ふたつき、みつき、ストーリィは、南は九州、北は北海道とスレチガイの妙をみせ乍ら、徐々に聴視者数を拡げていった。この間、ドラマ初出演の島倉君の努力たるや涙ぐましいものがあった。また陰に陽にこれを援ける園井君の態度もまた心なごむものがあった。ただ両君とも、舞台にスタジオに多忙を極める一方、肉体的には一見、頑健そのものというタイプには程遠いものがあるので、私としては両君の健康状態が一番の気がかりだった。【この項、文:橋本信也氏(「テレビドラマ」(雑誌、ソノブックス社刊)1962年10月号より引用)】【参考資料:雑誌「テレビドラマ」(ソノブックス社刊)1962年10月号、書籍「タレント名鑑 No.2」(1963/06/30発行、編集:日本タレントクラブ、発行:芸能春秋社)[天草四郎の項]】