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ドラマ 詳細データダイマル・ラケット、森光子の「びっくり捕物帖」(第1回・第2回)お化けかむろ 前編・後編(びっくり捕物帳)

『びっくり捕物帖』(放送期間:1957/04/22~1960/05/22、全161回)の第1回。人気のあったシリーズで中田ダイマル・ラケットの目あかし役が人気者になり大映で劇場映画化もされた。漫才の味を生かした時代劇コメディーで、脚本を推理作家の香住春吾が担当したため、事件解決の謎解き要素も盛り込まれた。1960年正月の第141回を除き一話を前後篇の2回に分けて後編を解決編とした。藤田まことがテレビ初出演。ちなみに放送枠は第7回目から日曜12:15-12:45に移行し第8回より東京のNTVでネット放送された。「その頃、テレビの中の顔としてやはり強烈に思い出すものに、中田ダイマル・中田ラケット、森光子の顔があった。それは、毎日曜日の昼にきまって一緒に登場する顔として、私たちの中に定着した。いまならさしずめ奇妙なとり合わせというべきであろう。三人は『びっくり捕物帳』というコメディ番組でトリオを組んでいた。大阪のテレビ一局時代、大阪テレビ(1956年12月開局、1958年12月朝日放送と合併)がつくったこれは最初の全国ネット番組でもある。東京で見られる数少ない大阪局の番組という物めずらしさもあったが、その顔には同じ親近感でも東京局の番組の中の顔とはまた別種の味が感じられた。それが何であるのか、もちろん当時の私の理解のおよぶところではなかったが、一つ確実だったことは、この『びっくり捕物帳』で中田ダイマル・ラケットが一躍テレビの人気者となり、森光子がスターとして育っていったことである。そして熱心に見つづけた人は、さらにここから新しい顔、藤田まことが生まれ、ディレクター沢田隆治-コメディアン藤田まこと、といったテレビ新時代を象徴するようなユニークなコンビの登場を知るのに、たいして時間がかからなかったはずだ。放送開始は1957年4月、初期のディレクターは信太正行であったが、57年秋、沢田隆治が朝日放送から出向してきてバトンを受け継いだ。【この項、佐怒賀三夫氏・著「テレビドラマ史 人と映像」(1978年、日本放送出版協会刊)より引用。注:別の情報では沢田隆治氏は57年秋の着任当初は演出補を務め、演出を受け継いだのは1年後だったという。】」提供:モナ化粧品本舗。【異説】一部資料では1958年4月放送開始と記載されているが誤り。また一部資料では当初は日曜19時30分に放送されたとの記載があるが放送開始の1957/04/22はそもそも月曜日であり誤り。【参考資料:「キネマ旬報臨時増刊 テレビ大鑑」(1958/06/20発行、キネマ旬報社刊)、資料「澤田隆治演出作品一覧」(冊子・企画書「澤田隆治のてなもんや交遊録-涙と笑いの裏側-テレビ30年史」(株式会社電通発行)綴込)】提供:モナ化粧品本舗。【参考資料:「キネマ旬報臨時増刊 テレビ大鑑」(1958/06/20発行、キネマ旬報社刊)、資料「澤田隆治演出作品一覧」(冊子・企画書「澤田隆治のてなもんや交遊録-涙と笑いの裏側-テレビ30年史」(株式会社電通発行)綴込)】
キー局 OTV 放送曜日 放送期間 1957/04/22~1957/04/29
放送時間 19:00-19:30 放送回数 2 回 連続/単発 連続
主な出演 中田ダイマル・ラケット中田ダイマル中田ラケット)(1)(2)、森  光子(1)(2)、藤田まこと(1)(2)、(以下、非レギュラー松居 茂美(1)(2)、由良みち子(1)(2)、山口 幸生(1)(2)、白石 純子(1)(2)、かしまし娘(1)(2)、
主な脚本 (作:香住 春吾
主なプロデューサ 吉村 繁雄香住 春吾、(一部資料では、松本 昇三と記載されている
主な演出 信太 正行、(演出補:澤田 隆治
局系列 JNN
制作会社 大阪テレビ(OTV)

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