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ドラマ 詳細データきたぐに

当時の批評を引用する。「画面をみて、初めてこの作品が「隠された村」という詩をもとにして作られたことを知った。そして、〝詩〟の影響がかなり作品の上に及ぼしていることを認めざるを得なかった。この場合、〝詩〟ということは、いい意味での詩的表現を示すものではなく、むしろ主観的な詩の世界とテレビの客観性の矛盾の原因になっているという意味である。私は、もとになっている詩を知らない。従って作品との関連性も窺い知るすべはない。しかし、製作者は知らず知らずのうちに、客観性のない〝詩〟的表現上の過失を犯していたのではないだろうか。主観的な表現によって、作品に客観性を与えることもひとつの技法である。とすれば、この作品の場合、製作者の目の安定感が欲しかった。特に、田の神様を迎える古い農家の姿とそこに住む少年の在り方、それと対照的な重々しい実社会の描写、両者をつなぐ木版画の挿入――これらの間には、製作上の誤算が強く感じられる。その結果、みるものの視聴に不要の断層を作り、表現上の力を分散させているとみるのは独断であろうか。私は、作品の主題とも関連する大きな問題点だと思う。「きたぐに」の冬は、雪に埋もれている。しかし、出稼ぎにゆく次男三男や嫁入り費を求める娘たちは、冬の雪とは関係のない現実かも知れない。いや、ある場合はこの作品のような例もあるだろう。この作品は後者の「きたぐに」として画面を作っているが、いささか主題を欲張りすぎたのではないだろうか――別な見方をすれば、描き足りない部分に、「きたぐに」の姿があったかも知れない。例えば、田の神様を迎える老農夫をみつめる子供の目は何かを語ろうとしているかに見えた。ドラマ構成の原則からも、対立する人間が必要だったのではないか。農村、都会、工場と画面は主観的に展開されてゆくが、主題「きたぐに」の結果を結びつけるのは、どこかで構成上の無理があったのかも知れない。農村出身者の都会での敗北と田の神様のつながりにも独断がありすぎる。しかし、こうした試みを、私は否定しない。むしろ、自由な表現を喪失しつつあるテレビドラマの最近の傾向を矯正するひとつの役割を果たして欲しいと思う。そのためにも、製作者の正しい角度が望ましい。「きたぐに」に住む人々は体質的にも、言葉のなまりの上にも、もっと「きたぐに」的な暗さがあるはずだが、その点多くの演技者は余りに都会的でありすぎた。そうした演出上のミスが、作品の客観性を害なわせて素材の生な主観だけを露出させたのかも知れない。【この項、文:白石浩三氏(「テレビドラマ」(ソノブックス社刊)1962年3月号より引用)】」
キー局 NHK 放送曜日 放送期間 1962/01/10~1962/01/10
放送時間 20:30-21:30 放送回数 1 回 連続/単発 単発
番組名 テレビ劇場
主な出演 小林 昭二米倉斉加年岡部 雅郎新間 正次吉田千恵子藤原 釜足津島 道子
主な脚本 (作:鈴木 新吾
主な演出 遠藤 利男
局系列 NHK
制作会社 NHK(名古屋放送局)

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