病気がちの妻(喜多道枝)のほかは、地位も財力も何ひとつ不自由のない経済雑誌の壮年社長・土居広之(原保美)は、山の温泉宿で行きずりに屋代幾子という女(池内淳子)を知った。彼女は銀座で宝石商を営む六角庫吉(若宮忠三郎)のめかけである。六角は横暴だったが、不幸な境遇から彼に救われた幾子は忍従の生活を送るばかり。土居はそんな女の姿に心をひかれる。幾子は六角からタバコ屋をまかされていた。土居はその店に通った。親友の大学教授・岸やバーのマダムに応援を頼んだが、幾子の態度は変わらない。やがて六角は土居と幾子の交渉を知り、彼女をぶつ。その時幾子は初めて自分の生活を立て直す決心ができる。そして、いまでは自分の心の奥まで入ってきている土居に相談したところ、彼はこころよく職も家もみつけてくれた。二人は激情を抑えがたく、伊香保へ旅行する約束をする。当日、土居の妻・知子の病状が悪化し、彼は心ならずも幾子を裏切ってしまう。土居にすべてをかけていた幾子は失望のあまり、六角にところへもどろうとしたが、事情を知ってすべてを許す。そして二人は激しい雨の夜結ばれる。土居の楽しい毎日は、妻への背信に悩む毎日でもあった。彼は幾子に恋しながら、妻も愛していたのだ。しかし、知子の死がとうとうやってくる。「やさしいよい奥さんを迎えて」という知子の信頼しきったことばを聞くと、土居はいままでの背信が居たたまれなくなった。彼は幾子をつれ、妻の死んだ伊東の別荘に行き「僕と別れてほしい」というのだった…。【以上、朝日新聞1960/06/28付より引用】昼間の主婦族をテレビの前に釘付けにして、昼の番組編成を大きくかえるきっかけとなった昼のメロドラマ、通称「昼メロ」のはしり。1957/04/01~1957/12/31まで同じ題材がラジオ(文化放送)で放送された時にも「よろめきドラマ」と呼ばれ、家庭にいる主婦に多く聴かれていたが、テレビドラマとして登場となると、愛欲シーンはいっそう刺激の強いものとなって、賛否こもごもの反響を巻き起こして話題になった(「TV40年 IN TVガイド」より一部改変)。アップシーンの多用が主人公たちの心理描写をシリアスなものにした。なお、午後1時台に連続ドラマが登場したのは本作がはじめてであるという一部資料の記述があるが誤り(そもそも放送開始の1953年にすでに『さつきさん』(日テレ)という連続ドラマが13時台に放送されていた)。演出の岡田太郎は本作を後年回顧している。「一九六○年、即ち昭和三十五年の春、フジテレビはようやく開局して一周年を迎えたばかりだった。開局のどさくさと経験者のいない少人数の我々は極度の緊張の連続と日夜のオーバーワークに疲れはてていた。然し、若いエネルギーが、何か新しいものを求めていた。そんな春の日、私は偶然狭い食堂の片隅で編成部の連中と同席した。時間のないまずい昼食だった。編成の企画マンが私に、テレビドラマの企画として何か「とてつもない」面白いものはないかと尋ねた。彼等は誰と会っても同じ質問をしたに違いなく、はね返ってくる言葉もあまり期待していなかったに違いない。私自身、食事を口にしながら何か、とっさに答えなければならないものとして瞬間的に「真昼間によろめきドラマでもやるか」と言った。はっきりした計算はなかった。前から秘かに考えていたものでもなかった。そう答えた時私の頭に去来したヒントは、私がフジテレビに来る前いた文化放送で(当時私は放送進行、いわゆる送り出しの係にいた)毎朝聞いていた一連の帯ドラマを連想した事による。午前九時半から四十五分まで十五分のベルトで、丹羽文雄、石川達三、井上靖、伊藤整、等々文芸色豊かな男女の愛のドラマを物語る時間であった。それはラジオの世界では朝食をすませ、主人を送り出した後の主婦をはっきり対象として考えられ企画された番組であった。そのヒントが茫洋と、主婦が昼間一人で家庭にいる時間への着想と結びついた全くとっさの事だった。食事は雑談のうちに終わった。或は何事もなくそのまま時は流れたかもしれない。然しその言葉を拾った編成部がそれからの私自身の世界を大きく変え、又フジテレビの番組に一つの革命をもたらした。一つの雑談が転がり始め、とどまる所を知らずに大きくふくらみ、その夏七月に遂に実現の運びとなった。皆が首をかしげながら、あくまで一つのテストケースとして。当時各テレビ局の昼間の時間は殆ど教養的番組で占められていた。テレビ映画がまだそれ程発達していなかったためスタジオを使用する音楽、ドラマの番組は殆ど夜の時間に集中し、昼間は物理的にもあまり手間のかからない、スタジオ容量も少なくてすむ、教養的番組のみであったし広告する側でもそれ程重視してとらえていなかったに違いない。その時間にレッキとしたドラマを放送するという事は余程の採算が予想されない限り不可能に近い。誰も考えなかった。然しフジテレビがそれをどうしてもやるという事になったのだ。目的は一つ。その時間に家庭のテレビの前にいる全女性をそこに釘づけにする事。それ以外は全くない。昼間家庭にいる女性とは大別して二つ、即ち主婦と、夜仕事を持っている女性である。この両者を完全に我がものにする為の作戦がねられた。先ず放送時間だが、テレビのある場所が職業と結びついている場合も考慮に入れ、昼食のすんだ直後、午後一時が選ばれ、曜日は、一家団欒の日曜日が去った直後、月曜日が選ばれた。作品内容は色々検討され当初私は伊藤整氏の「氾濫」を押したが、人物配置その他の複雑さを考え最も単純な形で最も典型的な「よろめき」を一作目とする為に丹羽文雄作の「日日の背信」を選んだ。脚本は現在もこの時間で活躍中の浅川清道氏に依頼し主役の屋代幾子には池内淳子氏を決めた。よくこの間のいきさつを今でも聞かれるのだが、これ又全くの偶然という他ない。というのはこの企画が云々されるよりはるか以前、とある日、演出部のデスクに一人の美しい日本的な女性が坐っていた。私は彼女が誰だか知らなかった。彼女が去った後その人の名を聞いた。それだけだった。「日日の背信」をやろうと決めた時、私の脳裡にその時の印象が鮮やかに浮き上がった。他の俳優に頭が廻らなかった。早速会ってみた。非常に内気な感じのおとなしい人だった。決めた。あとは私がどう演出し、いかにうまくその時間のテレビの前にいる女性をひきつけるかである。私は意識して演出上次の各点を心がけるようにした。☆「よろめき」そのものの現象と心理過程があくまで同情的なやむを得ざる状況の中で進むこと。☆女主人公を、あくまで美しく、あくまでやさしく、あくまで日本的雰囲気で描くこと。☆六角庫吉という仇役をあくまでにくらしく、いやらしく描くこと。☆ドラマのテムポを意識して或る部分遅くし、ムードを徹底的にかもし出すこと。☆音楽を工夫しドラマのムードを盛り立てること。☆ラブシーンを避けずむしろ積極的に、美しく描き一つの陶酔境を作り出すこと。☆客観的な雰囲気のドスのきいた声のナレーションを多用し、原作の持つ心理描写の文章をそのままやや難解な形で表現する事によって更にムードをかきたてること。☆アップサイズを多用する事によって、スタジオの作られたドラマであるという雰囲気から脱却して観客の心理の中に喰いこむこと。などだった。私は意識してそれを心がけた。 かくして昭和三十五年七月遂に、多少の不安と大きな期待のもとに「日日の背信」は昼間のよろめきドラマ第一号としてスタートした。大変な評判となった。多くの主婦からの非難を予想していた我々のもとには逆に多くの激励が返って来た。スタッフ出演者全員が、この新しい試みに寄せられる好意の波にますます乗り切って盛り立てられた。茫然としているうちに三ヶ月がたった。「日日の背信」は終わったが、続いてすぐ次の作品が始まる。月曜日だけでなく、火曜日にも水曜日にも同傾向のドラマが企画されて行く。あっという間にもうテレビの世界で午後一時台はドラマしかなくなる時代になってしまった。それからやがて九年の月日がたつ。その間にいろいろな変遷があった。然し最初のそもそもの出だしはこんな事だった。【この項、文:岡田太郎(書籍「ライオン奥様劇場 お昼のメロドラマ1000回の歩み」(1968年、フジテレビ編成部広報課刊)より引用、転記:高校教師)】」提供・東洋綿花(トーメン)ほか。【異説】「テレビドラマ全史」では1960/09/19放送終了と記載されている。【データ協力:高校教師】