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ドラマ 詳細データ夕餉前

実験放送での放送で、日本最初のテレビドラマ。母が持ち帰った写真を、兄と妹はお互いの見合写真と取り違えるというスケッチ風の喜劇。約12分。同じ題材で1940/04/13、1940/04/14、1940/04/20の3回放送された。世田谷の放送技術研究所から、放送会館(1940/04/13、14)、愛宕山の旧演奏所(1940/04/13、14)、上野の産業会館の「輝く技術博覧会」(東京日日新聞主催)会場(1940/04/20)の三ヶ所に送信された。なお、データ欄の放送時間は実験放送全体の時間であり、様々な出し物の中でドラマが放送されたのでドラマ自体の放送時間は不詳。「わが国ではじめてのテレビ・ドラマが放送時間にして15分に満たない短い作品だったのは、制作費が限られていたとか、放送時間がそれくらいしか与えられなかったという理由ではない。出演している俳優たちが、強烈なライトの熱に、やっと耐えられる時間が15分、こういうことだった。現在から考えると滑稽な気がするが、当時にしてみればこれは悲惨な15分だったに相違ない。作者が伊馬春部になったのは、そのころ彼がラジオに「ほがらか日記」というコメディを書いて、これが評判だったからである。伊馬は映画の脚本も書いていて、映像にも馴れていた。その点からも都合がよかった。演出をしたのは、NHKの文芸課にいた川口劉二と坂本朝一の二人である。坂本朝一はNHKに入ったばかりで、現在の呼び方をすれば、川口劉二がディレクターで坂本朝一はADということにでもなろうか。1940年3月に二人は文芸課長の小林徳二郎に呼ばれ、テレビ・ドラマをやれといわれて、世田谷の砧にあるNHK技術研究所に通いはじめる。東京の内幸町にあった放送会館から砧へ通勤、当時これを「砧通い」といっていた。脚本を依頼された伊馬春部はいろいろと想を練った。ラジオと異なって音だけでなく、絵が出るのだから、たとえばすき焼きのテーブルを囲んで、家族が食事をするなごやかなひとときもいいじゃないか。肉が焼けるジュウジュウなんて音も入り、おいしそうな湯気のたつ鍋、楽しそうな家族の表情、実にテレビ向きだと考えた。このあたり、1940年の実験放送時代と、1982年(注:本稿が執筆された年)のホーム・ドラマと発想は大して変っていないことがわかる。「飯食いドラマ」と酷評されるテレビのホーム・ドラマは、そもそも出発点が、家族の食事というシチュエーションだったのだ。しかし、すき焼きの食卓を囲んで、家族の団欒という光景は実現しなかった。とにかく、放送時間が15分である。これでは肉が煮えはじめる前に、放送時間は終ってしまう。これでは親と子が食事をしながら語り合うところまでもたないではないか。団欒以前でドラマは終りだ。こう考えた時、伊馬春部の頭にひらめくものがあった。団欒の前、つまり「食事前のひとときだ。これがいいじゃないか。これをドラマにすればいい」。窮余の一策とはこのことである。わが国ではじめてのテレビ・ドラマは、こうして家族が夕食前のひとときを語り合うというシチュエーションの作品に決った。題名は内容をそのままに『夕餉前』、出演者は母親と息子、それに娘の三人だけ。娘が嫁にいく前のある日、家族は食卓を囲んでしみじみとこれまでを振り返る。情感たっぷりの「嫁ぐ日を前に」であった。辛辣にいえば、さながら現代のホーム・ドラマを縮小した原型版のようである。出演者は母親が原泉、息子が野々村潔、娘は関志保子だった。野々村潔は岩下志麻の父親で、ここに原泉、関志保子とならんでテレビ・ドラマ出演第一号の俳優となった。関志保子は宇野重吉の夫人である。NHK技術研究所にセットが組まれた。セットといっても、30坪ばかりの床に板きれで台を作り、薄べりを敷いて茶の間の形だけに見せたもの。小道具は技術研究所の小使い室から借りてきた。テレビ・カメラは二台だけで、一台はクローズ・アップ専門、もう一台はロング用だった。問題はライトである。カメラにはとにかく光量が必要だった。このために、猛烈に強力なライトを出演者たちの頭上と側面から当てる。この白熱電球の熱が大変なものだった。頭の毛がチリチリになってくるというのだから凄まじい。仕方がないから、テスト中はパラソルをさしてライトの熱を防いだという話があるくらいだ。この熱の下では芝居を続ける限度がせいぜい15分だったというのももっともな話である。『夕餉前』の放送は1940年4月14日だったが、その前々日、12日からカメラ・リハーサルが行われ、いよいよ本番。技術研究所からの映像は東京の内幸町にあった放送会館、愛宕山(現在の放送博物館、元東京中央放送局)、日本橋の三越の三カ所に設置された受像機に送られ、一般に公開された。放送は大成功だった。放送が無事に終了、スタッフ一同がやれやれという時に、放送会館から電話が入り、逓信大臣がきたからもう一度やってくれという注文、エライ人は昔から無理をいう。ライトの熱でぐったりしていた俳優たち、仕方ないからやるかと重い腰をあげ、『夕餉前』を再演、本番を二度繰返すとはテレビ・ドラマ第一号からとんだ珍記録だった。【この項、文:白井隆二氏[放送評論家](白井隆二著「テレビ創世記」(1983/02/01、紀尾井書房刊)より引用)】」【参考文献:飯田 豊著「テレビが見世物だったころ 初期テレビジョンの考古学」(2016/03/18第1刷、株式会社青弓社刊)】
キー局 NHK 放送曜日 放送期間 1940/04/13~1940/04/13
放送時間 15:00-16:00 放送回数 1 回 連続/単発 単発
番組名 テレヴィ演藝
主な出演 原  泉子原   泉)、野々村 潔関 志保子
主な脚本 伊馬 鵜平伊馬 春部
主な演出 川口 劉二坂本 朝一
局系列 NHK
制作会社 NHK
音楽 (ミキサー:福岡 勝之
撮影技術 佐藤 英久、(受像主任:城見多津一

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